旧和佐村概要

面  積

 

 旧和佐村の総面積は、7.5968平方キロメ-トルです(昭和11年4月調べ)

 

 

地名起源

 

 和佐村
      和佐は、和田と同じく湾曲の意であり、和佐の地は太古は海であった。この辺は大きい入海即ち湾であった。これによりこの地名が起こったのでは

 

 布施屋

 旧熊野街道は川永から川を渡って布施屋にきた。ところが大水の時は川を渡ることが出来ず減水まで待たなければならなかった。

 花園天皇の文保年間、祢宜歓喜寺の定観坊が熊野参りの人々のために布施屋に接待所を設け、食物を供し宿舎を与えたことがあった。

 布施とは、清浄な心を以て人に心又は物を惜しまずに施し恵むことで、布施屋の地名はこのことから起こったのでは

 

 関 戸(現在は「和佐関戸」)

  堰所の意味で紀ノ川をせき井ノ口に送り灌漑に供したので名付けられたのでは


     井ノ口
      川の堰口で湯の口から井ノ口に転じたのでは

 

 祢 宜
      観喜寺は高山三社の別当であった関係上高積神社の祢宜が住居していたためでは

 

 千 旦
      徳川頼宣がこの地を訪れたときに、栴檀(せんだん)の大木があったので、この一円をセンダンと名付け、それが変化して千旦になったのであろうといわれる

 

 和佐中
      上和佐と下和佐との中間にあるため名付けられた

 

 下和佐
      和佐の荘の下にあるから下和佐と名付けられたのでは