大和街道

 

 大和街道は、紀伊国と大和国を紀ノ川地溝にそって結ばれる近世の主街道であった。<参勤交代のル-トとして栄え、紀州の殿様の参勤交代が伊勢路をとるときの道でもあった。

 一里ごとに一里塚を設け、塚には松を植えていた。現在も和歌山市新在家に四箇郷一里塚が残っている。

 大和街道は、明治10年前後の仮定県道となり、大正9年に県道和歌山奈良線、昭和5年に国道15号、昭和39年に国道24号(その後、紀ノ川の北側にバイパスが完成したことにより和歌山市出島から打田町の間が県道14号線和歌山打田線となる)とたびたび名称を変えた

 

和佐地域における大和街道

 県道14号線和歌山打田線を田井ノ瀬方面から紀ノ川の堤防を東進し千旦北口(JRの和歌山線千旦駅北)から県営千旦第2団地に沿って南に県道から分かれ市道布施屋千旦線に入り東進する。禰宜(畑山製衡所千旦工場の東側道沿い)には二里松跡がある。

 布施屋では熊野街道と交差し東進する。

 

二里松跡


 神様松とも言われて人々に親しまれていた松の古木があった。

 四箇郷の一里松、次の船戸の三里松と共に、和歌山市京橋からの旧大和街道の道程を示す松であった。

 今は、枯れて無くなっている。

 上記のフェンスの中の木の間に下の標板が立っている。