熊野古道

 紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていました。

 中国から伝来した「仏教」も、深い森林に覆われた紀伊山地の山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、仏が持つような能力を拾得するための山岳修行の舞台としました。

 その結果、紀伊山地には、それぞれの起源や内容を異にする「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の三つの「山岳霊場」とそこに至る「参詣道」が生まれ、都をはじめ全国から人々の訪れる所となり、日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼしました。

 平安、鎌倉期の中でも院制期に栄えた本宮・那智・新宮のいわゆる熊野三山に対する熊野詣では、紀伊路が利用されるようになり、延喜7年(907)の宇多法皇に始まり、以来、法皇、上皇の熊野行幸は白河院の十二度、鳥羽院の二十三度、後白河院の三十三度、五島羽院の二十九度にもおよんでいる。

 京都から往復約600㎞、およそ1カ月をかけて、実に130年にわたって行われました。

 京の都をでて、船で淀川を下り、今の天満橋の川べりに上陸。熊野九十九王子の第一王子、窪津王子を参拝し、それから各王子社をたどり、和泉から雄の山峠を越え紀伊の国へと入ります。

 紀ノ川、藤白坂、鹿ケ瀬峠越えを経て、熊野の玄関口である田辺から中辺路の山中の道を超え本宮に出、新宮、那智に詣って妙法山に登り、大雲取、小雲取の険路を踏んで本宮に戻り再び中辺路を通って都に帰っていく。

 熊野詣では法皇の参詣によっていっそう盛んになり、道中に王子社が建てられ、休憩や歌会が行われた。

 しかし、弘安4年(1281)3月、亀山上皇の御幸をもって終末をつげ、承久の変以来、熊野は次第に勢力を失っていった。

 しかしながら、江戸期に入った元和5年(1619)、紀州藩主徳川頼宣が熊野三山の復興に意を用い、社寺の修復や、駅制の整備などに力を注ぐことにより、近年の蟻の熊野詣と言われる最盛期を迎えることになる。
 和佐地域では、紀ノ川の横断を終えた古道は、和歌山市東部の農村地帯を南へと向かいます。江戸時代の大庄屋の遺構を残す旧中筋家住宅や弓の名人和佐大八郎の墓、点在する王子社川端王子、和佐王子等をめぐり、矢田峠(トンネル)を越えます

 

川端王子跡

「紀伊続風土記」には、川端王子について昔は村の西七町小栗街道(熊野街道の別名)にあり、今、村中に移す」と記されている。

 建仁元年の後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家の「御幸記」には「川端王子」の名前はみえず、それ以後に設置された王子社とも考えられる

和佐王子跡

建仁元年(1201)後鳥羽院熊野御幸記に記載されています。

 寛文年間(1661~73)にはすでに社殿はなくなっていたので、紀州藩が現在の石碑を建て遺跡の保存を図った。

 幕末頃には、1間半四方の社殿が再建されたが、明治42年(1909)高積神社に合祀された


布施屋の渡し場

 熊野詣の人々は、紀ノ川の対岸から吐前に船で渡っていたが、やがて紀ノ川の流路の変化により布施屋に渡るようになり、渡し場が設けられた。    昭和30年半ばまでは対岸の川辺へ渡る交通の要所となっていた

禊所跡(いっちゃ芝)

 熊野御幸のとき日前国懸両神宮へ差し遣わされる奉幣使が禊ぎをおこなった所、すなわち、身を清めたところです。

 後鳥羽上皇が建仁元年10月熊野御幸の際、藤原定家を奉幣使として差し遣わされたことが文書に残っています。

 禊所の地を一名ユキの芝とも言っている。

 「幸の芝」の意。また、清浄田ともいう。

 禊をする清浄な土地という意味です。

 「いっちゃ芝」とは、ユキの芝、イキの芝、更に転じていっちゃ芝となったのでは。或いは、井ノ口の芝、イチが芝、イッチャ芝と転じたのでは(紀伊続風土記の解説)

 ここで、禊斉した奉幣使が、日前国懸両神宮に参拝し、岡崎満願寺に立ち寄り、東に向かい吉礼を経て口須佐で一行に合流して南に向かったものである。

 場所は、現在の井ノ口の笠松鉄工所の南、四ケ井川を渡り、10mばかり進んだあたりと思われる。