松下幸之助生誕の地

  パナソニック株式会社(旧松下電器産業株式会社)創業者

 

和歌山県出身の友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑。題字はノーベル物理学賞を受賞した同郷の湯川秀樹博士の筆によるもの。

 

 松下電器産業株式会社の創業者・松下幸之助は、和歌山県名草郡和佐村字千旦の木(現・和歌山市禰宜1216)に明治27年(1894)11月27日に、8人兄弟の末子として生まれました。父政楠は、百姓仕事は小作人に任せ、村会や役場の仕事に携わることの方が多かった。
 若くして和佐村の村会議員に選ばれたこともある。進取の気性に富み、そうした機運の高まりにも興味を持ったのか、米相場に手を染めた。

 しかし、慣れないこととはうまくいくはずはなく、松下幸之助が4歳のとき、米相場に失敗したため一家は、父祖伝来の土地と家を人手に渡し、和歌山市内に移り住む。

 そして、明治37年(1904)11月23日に、小学校を4年で中途退学して紀ノ川駅から単身大阪へ奉公にでる。

 松下家は、小地主で、千旦の木では旧家に属した。

 松下家は、幸之助の祖父・房右衛門(明治15年(1882)8月5日没)のころが最も盛んな時代で、千旦から西和佐村までいくのに他家の土を踏まずにいける資産家であった。しかも、松下家の田地は上々田ばかりであったという。

 生家の敷地内には、樹齢700~800年といわれる松の木がそびえ、近所では、「千旦の松」と呼ばれていた。

 この松も、昭和41年(1966)夏の落雷により3分の1を焼失、昭和45年(1970)11月21日の隣家の火災により根本の部分を5mほど残すのみとなった。

 松下の姓は、田舎には珍しく千旦には一軒のみで、家が樹令数百年はたつという松の大樹の下にあったところから、松下の姓はつけられたという。

 幸之助は、大正4年(1915)、20歳のとき、19歳の井植むめのと結婚した。

 大正6年に現大阪市生野区でソケットの製造販売を始めた。その時、妻の弟・井植歳男を呼び寄せた。この弟は、後の三洋電機の創業者です。

 大正7年3月家庭用電気器具の製作普及を目的として松下電器製作所を創設し、最初にアタッチメントプラグ(電気器具)を製作、続いて自転車用ランプ、電気アイロン、乾電池等と家庭生活を向上させる重宝な製品を次々に作る。

 昭和10年12月に株式会社組織に改組し松下電器産業株式会社を設立、取締役社長に就任。

 昭和11年には電球の製造に着手するほか、その後も次々と新しい家庭電化製品を世の中に送り出し、家庭電機及び無線電機の製作普及に努める。

 また、電気事業界のみならず電気協会海外貿易促進委員会委員として、海外貿易にも積極的な活動を行ったが、我が国電子工業界の立遅れを痛感し同工業の基礎である電子管に着目、昭和27年世界一流メーカーたるオランダのフィリップス会社と技術提携を行う。

 昭和33年6月この経済提携により日本・オランダの両国親善に尽くした功績に対し、オランダより経済提携親善功績章(コマンダー・インザ・オーダー・オブ・オレンジ・ナッツ)を授与される。

 松下幸之助の真の偉大さは、優れた事業家であることのみにとどまらず、教育、文化、体育、社会福祉等あらゆる方面の発展向上に尽力されたことです。
 なお、氏の功績に対し、昭和13年に紺綬褒章、同31年に藍綬褒章、40年に勲二等旭日重光章、さらに56年には勲一等旭日大綬章を授与される。

 平成元年4月27日に逝去され、生前の功績により正三位に叙せられた。

 現在、和佐の生誕地の碑の近くに松下公園や松下家の墓所がある。

 

注1 湯川秀樹は、旧東京府東京市で生まれ、1歳のとき京都市に移住。父は和歌山県出身で,湯川家自体が先祖代々和歌山 県出身であるため同郷となっている。

注2 名草郡は、明治29年4月1日に名草郡と海部郡が合併し海草郡に。 昭和31年9月1日和歌山市に編入される。

 

 

 電灯さえ普及の途にあった明治の終わりに電気の世界に身を投じ、マルチメディア時代を目前にした昭和の終わりに幕を引いた松下幸之助の生涯は、日本の電化時代を象徴する立志伝であった。

 世界の繁栄という大きな願いを、あくまで追い求める高邁な精神と同時に、常に世間の人々と同じ立場に立つ庶民性を併せ持つ不思議な魅力です。

 そして、火鉢屋の丁椎を振り出しに、幾多の困難を強い信念で乗り越え、自らの「道」を切り拓き続けた生き方は、今もなお、多くの人の心に生き続けています。

 幾度もの困難を見事に克服し、経営者としてまれに見る成功を収めてきた松下幸之助を、いつしか世間は「経営の神様」と呼ぶようになっていた。

 

 

  生誕地の松

 

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