1633年 個人経営鉱山として開鉱
1824年 紀州藩直営の銅山として開発
1946年(昭和21年)廃鉱となる
寛永10年(1633)旧藩政お勝手方が禰宜砿山を採掘する。この時、砿毒が金池及び和佐ケ池に流入し池魚は全滅した。
また、下流の農作物はその被害を受け三分乃至五位しか実らなかった。
農民は採掘の停止と年貢米の免除を願い出た。
代官は毛見巡視を行い年貢米は幾分軽減されたが、砿山の採掘は停止されなかった。
そこで、農民は寺鐘を鳴らし太鼓をたたき、大挙して砿山を襲い詰役人や稼人を追放し、建物器物を破壊し百姓一揆の勢熾烈を極めた。
代官御小人目付などの役人出張し百方鎮撫につとめ、入牢処分を受けた者十数人、庄屋大庄屋はその責任を問われて相当の処罰を申し付けられた。
しかしながら、収支償わないことと農民の苦痛を察して数年後採鉱を中止せられた。
弘化年間(1844~1847)に平岡屋八郎右衛門が再掘を試みたが僅か半年で、被害甚だしく農民不穏の情勢を呈してきたので採掘中止となった。
文久2年(1862)に藩政御仕入方より開掘しようとしたが歎願のため中止された。
慶応4年(1868)に藩において大砲鋳造のため時の奉行より、代官を通じ大庄屋に示達し開掘しようとしたが、不穏の形勢が現れたので、沙汰やみとなった。
明治45年(1912)に大阪の高屋隆諦、玉置友吉、池田梅蔵の3氏から出願があり、砿山局は不許可とするが、同人らはこれを納得せず大正2年(1913)5月違法処分取消の行政訴訟を提起する。
これに対し、宮井水利組合は灌漑田2千町歩の死活問題だけでなく、四ケ郷の450町歩、ひいては和歌海苔、和歌浦のカキも侵害される大問題ということで、各地相呼応して各町村長組合会議員有志郡役場に集合して今後の方針を協議し、5項目の有害理由を挙げた。
大正3年(1914)1月13日には実地検証のため行政評定官清水法学博士、鑑定人として東京大学古川助教授来県、両者の主張と鑑定人の意見、そして実地に検討を加え、こうして2ケ年、行政裁判所は除外施設工事を完全に行うことを前提として公益上害ありととの主張は理由なしとの要旨を以て判決を下した。
粉砕を極めた砿山事件も解決し出願者はその後、試掘を開始したが価値なしと断定し廃鉱となった。
第二次世界大戦中も採掘されたが、これもまた収支償わず廃鉱となる。