旧中筋家住宅は、和歌山市禰宜148に所在し、東側は熊野古道に面しています。
徳川藩政の平和な時代の末期に、和佐組大庄屋としてふさわしい屋敷構えを残しています。
南北約57m、東西約40mで、敷地面積約2200㎡、外周は土塀で囲まれ東側と南側は堀のような水路が巡っています。
嘉永5(1852)年建築の錣建て、本瓦ぶき、入母屋造りの主屋は、3階の望山楼、20畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家で、国重要文化財にも指定されています。
望山楼からは、東に、高積山が眼前に、西には、和佐の田園、また、和歌山城や淡路島が遠望できました。
苗字帯刀を許され武士並みの格式を有しています。中筋家は、天正13(1585)年、豊臣秀吉の根来攻めの兵火をさけるためこの地に住居した文貞坊に始まると伝えられています。
4代目良政が貞享4(1687)年に禰宜村の庄屋となり、5代目良重が寛延3(1750)年和佐組の大庄屋となり、明治に至るまで6代にわたり大庄屋を勤めました。
旧中筋家は、戦後「楫本重一」氏の所有となり維持管理がされてきましたが、その後和歌山市が管理団体となって平成12(2000)年から約10年間にわたって平成22年2月まで保存修理が行われました。
主屋
式台玄関を構え、別棟の20畳の大広間も併せ持ち、一部に3階座敷を設けるなど、家の人が普段使う部屋よりも、大広間や表座敷など接客のための部屋が多いのがこの家の特徴です(寛永5(1852)年建築)。
表門
間口30mに及び、中央にけやき造りの門を構え、出格子を設けた風格のある建物で、東側は大庄屋の役所として、西側は使用人部屋や米蔵として使われました(江戸時代後期建築)。
長屋蔵
桁行30mに及ぶ2階建の蔵です(文政13(1830)年建築、寛永5(1852)年拡大)。
北蔵
2階建ての米蔵です(江戸時代末期建築)。
御成門
賓客が大広間に直接入るための門と考えられています。50mに及ぶ土塀が付随しています(江戸時代後期建築)。
内蔵
家財を収納した蔵で、主屋とは大広間の西側でつながっています(明治19年建築)