高積山</a>の頂上にある高積神社(上の宮)の南600mの尾根筋を城ケ峯(255m)といい、南北朝期に畠山氏によって築かれたという和佐山城跡(空濠・井戸・石垣など)がある。
鎌倉幕府滅亡後、紀伊国では北朝側から派遣された守護、守護代の統治に対し、南朝方の武家が抵抗して、紛争はたえることなく起こった。
建武年間(1334~1338)には、北朝方の四条中納言隆俊が、塩屋伊勢守と共に、最初ケ峰に布陣した。
これに対して、北朝方は畠山義深を大将として和佐山(現:城ケ峯)に城を築いた。
この様子は、「太平記」紀州龍門山軍事に、「先己ガ陣ヲ堅シテ後ニ寄ントスル勢ニ見ヘテ、屏塗リ櫓ヲ掻ケル間…………」とあるが、陣城というよりは、むしろ一城郭としての要素が強かった。
高積山の南尾根続きに、城ケ峯がある。そこが和佐山城の本丸跡である。
本丸は、東西30m×南北20mでその南寄りに方10mで高さ約2mの天守台のような台がある。おそらく物見櫓が築かれた地であろう。。
本丸の南に、二の曲輪がある。東西20m×南北60mで、10m幅で、西の方に腰曲輪となってのびている。この曲輪の東にも腰曲輪がある。
曲輪は、南にのびて四つの大小曲輪が、空堀を挟んで存在している。もっとも南に位置する曲輪は、東西30m×南北25mと広い。また、本丸内には、井戸跡もあって、かなり長期間の使用も可能な城郭であったと思われる。
和佐山城を根城とした畠山義深は、四条中納言隆俊とにらみ合いを続け、さらに四条方の武将塩屋伊勢守が、龍門山に布陣した。ここに龍門山合戦が激しく展開され、結局、四条中納言隆俊は、塩屋伊勢守と共に敗走した。
北朝方の畠山氏が、紀伊国の守護として落ち着くまでには各所で激しい合戦が繰り返された。だが、結局は守護職という名ばかりで終わることになる
○ 所在地 和歌山市禰宜
○ 築城年代 延文元年(1356
○ 築城者 畠山義深
○ 立 地 山頂
○ 現 況 山林
○ 遺 構 井戸、土塁、石垣、空堀